ホームカミング

起源への旅。フェルディナンド・ポルシェがオーストリアのヴィーナー・ノイシュタットでそれまでに類の無いレーシングカー、アウストロ・ダイムラー ADS R、通称“サーシャ”を設計してから100年以上の月日が流れた。かつてタルガ・フローリオでクラス勝利の栄誉を飾ったこのクルマを故郷に連れて帰った。

   

クランクを力強く回し、アクセルペダルをわずかに踏み込むと、待ち望んでいたエンジンの音が響き渡る。通り過ぎる人たちがスマートフォンを取り出し、カフェのオーナーがテラスに出てくる。歴史ある古い建物の窓に好奇心旺盛の人々が顔を覗かせる。耳慣れない音が聞こえてきたのだから当然だろう。普通のエンジンの音のはずはない。その通り。100年以上前にフェルディナント・ポルシェが設計したレーシングカー、アウストロ・ダイムラー ADS Rの水冷1.1リッター4気筒エンジンからのパワフルなサウンドだ。現在、ポルシェ・ミュージアムに収蔵されている名車の中でも、走行可能な最古のモデルだ。そのクランクを握っているのは、ミュージアムの技術担当者であり、最年少のワークショップ・スタッフ、ヤン・ハイダックだ。彼はマイスターのクノ・ヴェルナーの指導の下、何カ月もかけてこのオールドタイマーを再び走れるように手を加えてきた人物だ。今日、彼らがクリストフォーラスのために、このクルマをその生まれ故郷、オーストリアのヴィーナー・ノイシュタットに里帰りさせる。

タイムトラベル:

タイムトラベル:

ポルシェミュージアムワークショップの技術担当者であるヤン・ハイダックが、2023年、ヴィーナー・ノイシュタット大聖堂の前を“サーシャ”で走り過ぎる。その100年以上前の1922年4月2日、このレースカーが第13回タルガ・フローリオから戻ってきたときの様子。観衆は旧アウストロ・ダイムラー工場の正面玄関前で一行を出迎えた。

ビジョナリーの夢

1920年、ウィーンの南60キロあまりのところにあるヴィーナー・ノイシュタットの自動車メーカー、オーストリア・ダイムラーの社長を務めていたフェルディナンド・ポルシェ(当時45歳)は、自身が抱くビジョンの実現に取り組んでいた。そのビジョンとは?一般の人々のための軽量の小型車を大量に、手頃な価格で生産すること。当時、すでに有名な設計士だったポルシェは、自動車の大量普及をそれが実現される何十年も前から考案していたのだ。量産車というアイディアには、このプロジェクトを疑い深く冷ややかな目で見ていたアウストロ・ダイムラーの取締役会の承認が必要だ。ポルシェは、レースで注目を集めればきっと気難しい取締役会も納得してくれるだろうと確信していた。そんなポルシェには情熱をともにする同志がいた。サーシャの愛称で親しまれていたアレクサンダー・ヨーゼフ・コロヴラート=クラコフスキー伯爵だ。映画プロデューサーでもあったコロヴラート伯爵はアウストロ・ダイムラーの株主であり、自動車を熱狂的に愛する人物でもあった。そこで彼はエンジン容量わずか1,100立方センチメートルの小型車に加え、レーシング・バージョンのADS Rを開発していたのだ。ADS Rのスポンサーになってくれたコロヴラートにちなんでこのクルマはサーシャと名付けられた。これが量産の4シーターと並行して、598キロにまで軽量化されたレーシングカーが生まれた背景だ。1922年、4台のプロトタイプがシチリアのマドニー山脈を走破する大胆なロードレース、タルガ・フローリオで初公開された。列車でレースへの輸送中にポルシェの従業員が4台のアルミボディを赤く塗装していたと言うのだから、レース直前ギリギリまで手が加えられていた切迫感も伝わってくる。遠くからでも見分けがつくように、コロヴラートのアイディアでトランプのマークも描かれた。

サーシャと彼の生みの親:

サーシャと彼の生みの親:

1922年、オーストリアのグラーツで開催されたレースに出場した4台のプロトタイプの1台。アレクサンダー・コロヴラート伯爵(車輛左)、若きフェリー・ポルシェ(車輛右)、その後ろに父、フェルディナンド。

そのうち3台が1.1リッタークラスでスタートする。自らプロトタイプのハンドルを握ったコロヴラートはエンジントラブルで脱落したが、残りの2台ワンツーフィニッシュでクラス優勝を果たした。1.5リッター・エンジンを搭載した最高時速144kmの4台目の“サーシャ”は、オープン・クラスでレースに挑み、432km、6,000のカーブ、最高12.5%の勾配を経て、総合19位に付けた。ADS Rはイタリアの新聞で“タルガ・フローリオの啓示”と絶賛された。サーシャは5倍もパワフルなエンジンを搭載した車と競争し、平均速度の差は8kmだけだったというのは特記すべき点だろう。アウストロ・ダイムラーの取締役会も、これは凄いとニュースを喜んで受け止めたが、それでもまだ重い腰を上げてくれない。それなら、勝ち続けるしかない、とポルシェは52のレースにこのクルマを参戦させ、22勝を挙げていった。しかし、取締役会は財政的な理由、インフレ、そして小さい国、オーストリアは適切な市場ではないと判断し、最終的に量産に反対することを表明した。量産されることなく残ったのはADS-Rの数台のプロトタイプだけ。しかし、フェルディナンド・ポルシェは軽量で、一般の人々でも買えるクルマというアイディアをひたすら追求していった。

砂を巻き上げて:

砂を巻き上げて:

ニーダーエスターライヒ州でのリーダベルク・レース前のトレーニングで、4台のプロトタイプのハンドルを握るコロヴラート伯爵。ヴィーナー・ノイシュテッター・アカデミー公園で彼の足跡を辿るヤン・ハイダック。

ついに故郷へ

2023年、ヴィーナー・ノイシュタットに戻る。太陽がヘアレンガッセを明るく照らし出している。この通りにある建物の多くは文化財として指定されている美しいものばかりだ。中にはその起源を中世にまでさかのぼるものまである。ヤン・ハイダックがアクセルを踏み込む。サーシャが100年ぶりに旧市街を回り、後期ロマネスク様式の大聖堂を巡り、13世紀のレクトゥルムの門をくぐる。ヴィーナー・ノイシュタットの人々は当時もこの光景を眺めていたに違いない。アウストロ・ダイムラーの工場など、当時ポルシェがあったことを証明する建物の多くはもう存在しないが、道の名前にFerdinand-Porsche-Ringなどが見えると、歴史の流れを感じざるを得ない。

今日、この火の玉のようなクルマのハンドルの感触を知るものはハイダックだけだ。「サーシャは別の時代の路面のために作られたクルマです。実際、グリップが良すぎるし、スピードも速すぎるし、パワーもありすぎる。でも、とても楽しいですよ。すべての振動を体で感じることができますし、エンジンの調子も耳で聞き取れます。パワーステアリングがないので力もいるし、ちょっとした勘みたいなものも必要になります。大事なのはゴーグル。これなしでは走れませんね」とこのクルマでの走りを語ってくれる。それは、前輪が路面の埃を巻き上げるからだ。しかし、ハイダックにとっては、これさえも喜びなのだ。「サーシャの故郷で走らせてもらえるなんて、すごく光栄なことです」。

シチリアでのプレミア:

シチリアでのプレミア:

1922年、タルガ・フローリオに出場したアウストロ・ダイムラーADS R。ゼッケン3でこのポルシェのステアリングを握るランベルト・ポヒャー。“3”の後ろに立つのは鍔付きの帽子をかぶったフェルディナンド・ポルシェ。100年以上の月日を経て、同じくヴィーナー・ノイシュタットで、リアに木製の工具箱を積んだサーシャがポーズを決める。

フェルディナンド・ポルシェに学ぶ

そういいながら彼は再びレーシングカーに乗り込む。シートベルトも照明もない(P.20のインフォメーションを参照)。運転席の横には、当時のレーシングカーによくあったメカニック用の臨時シートがある。ペダルも珍しいもので、左がクラッチ、右がブレーキ、真ん中がアクセルだ。「プロジェクトを始めて初めて、サーシャについて知らなくてはいけないことがまだたくさんあることに気づきました」とミュージアムのマイスターであるクノ・ヴェルナーが言う。「ドライブトレインを復活させようと思ったとき、当時の設計者の考え方に頭を切り替える必要がありました」。確かに、700台以上のヒストリックカーを管理するポルシェミュージアムとはいえ、この時代のものはあまりない。「例えば、ブレーキケーブルは現在ではまったく使われていません」とヴェルナーが説明する。「エンジンに関しては、戦前のエンジンを専門とするエキスパートの協力を得ました」。このレストアのためだけに工具まで特別に製作させたという。そんな風にこのクルマに手を掛けたエキスパートたちがそこに見出したものは?今日でも脈打つポルシェのDNAの特徴だ。「アルミニウム製の軽量構造、低重心」とヴェルナー。「これはポルシェのスポーツカーに共通するものです」。当時、アルミニウムは現在以上に高価なものであったが、フェルディナンド・ポルシェはそれでもアルミニウムにこだわった。今日までポルシェの名と切っても切れない関係にある“パフォーマンス”を求めていたからだ。

ピットレーン:

ピットレーン:

1922年、アウストロ・ダイムラー・テストコースでサーシャを走らせたアルフレッド・ノイバウアーとメカニックのゲオルク・アウアー。直列4気筒エンジンを再び起動させるヤン・ハイダックとクノ・ヴェルナー。

復活は始まり

午後に突然サーシャが動かなくなった。クランクを回しても、押しても・・・。チームには初めての緊張感が漂っているが、ヴェルナーとハイダックの二人は悠々と、言葉数も少なく、全く無駄がない手の動きで修理を始める。そして15分も経たないうちに、もうすっかり耳に慣れ親しんだレースカーのサウンドが聞こえてくる。「スパークプラグを交換しました」とヴェルナーは説明する。「このような古い車両を走らせると、こんなちょっとしたことが起こるのはごく当然のことなのですよ。驚くほどのことではありません」。ヴェルナーは『学びきることなどない』、そんな信条を自ら体現する人物だ。ポルシェに勤めて27年に達するベテランとはいえ、このプロジェクトは彼にとってもチャレンジだったようだ。「最初の頃は、サーシャとはあまり関係のない仕事をしていましたから。私にとってのポルシェストーリーは実はそれ以降から始まるもので。でも歴史に没入してみると、他のクルマから学んだことがあちこちにちらほらあって、それが醍醐味とでも言いますか」。彼らの努力のおかげでサーシャは当時走っていた通り、そのままに生まれ変わっている。重量598kg、最高出力50PS/4,500rpm、オーバーヘッドカムシャフトを備えた直列4気筒、排気量1,100立方センチメートルだ。「博物館の作業場で、100年以上にわたる自動車の歴史を通して生まれてきた車を取り扱っているのですから、夢の仕事ですね。その中でも、サーシャはハイライト、唯一無二の存在です」。

大満足のテストドライブ:

大満足のテストドライブ:

ヴィーナー・ノイシュタットでの2日間を振り返るヤン・ハイダックとクノ・ヴェルナー。

29歳になるハイダックがブルクガッセを通り、城壁に沿って最後の1周を走る。それを道端で眺めるクノ・ヴェルナーは満足そうな微笑みを浮かべる。「サーシャを故郷に連れてきてあげられたのは、素晴らしいチームワークの賜物です」。ヴァイザッハ開発センターの同僚、退職したスタッフ、外部委託業者。このレストアは多くの人を巻き込んだ大掛かりなプロジェクトだった。「しかし、これは始まりに過ぎません」とヴェルナーがはっきりと言う。サーシャは今後もポルシェの活動に関わり続け、ポルシェのDNAのルーツを忠実に世界に伝えていってくれることだろう。

サーシャの里帰り

クリストフォーラスと9:11マガジンの制作の一環として、100年以上前にフェルディナンド・ポルシェが設計したサーシャを、再びヴィーナー・ノイシュタットの街に連れて帰るというプロジェクトが敢行された。このアウストロ・ダイムラーADS Rはシートベルトなど今日の安全規制に適合できないため、交通のある一般道路を走行する許可を得ることはできない。しかし地元自治体の協力を得て、里帰りという夢が叶った。この取材のため、道路の一部を一時的に閉鎖してくれた住民たちは熱狂的にこのクルマを迎えてくれ、お礼としてサーシャは彼らに歴史的な瞬間をプレゼントした。レーシングカーの走りの様子を、直列4気筒エンジンのサウンドを体験したい?

サーシャ帰郷で収録された動画は『9:11マガジン』でご覧いただけます!

Matthias Kriegel
Matthias Kriegel
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