国境を越えた友情から生まれた
鉄のカーテンがドイツを東西に分断していた時代、旧東ドイツに “スポーツカーに乗りたい” という夢を追い求 めていたひとりのポルシェ・ファンがいた。そんな彼の情熱に 応えるべく惜しみなく手を差し伸ばしたのがフェリー・ ポルシェだった。東西ドイツ統一 30 周年を迎えた今年、 二人の友情の物語を振り返る。
第 二次世界大戦の終結から 8 年経った 1953 年、ドレスデンの街には 1945 年 2 月の大空襲による無残な爪痕がいたるところに残され、フラウエン教会やツヴィンガー宮殿といった歴史的建造物は依然として廃墟のまま、中心部の大部分は石の砂漠と化していた。ドイツは東西に分断され、ドレスデンは旧東ドイツ領となっていた。
そのころ 32 歳だったハンス・ミエルシュが本稿主人公のひとりだ。彼は第二次世界大戦中にザクセン州の兵士として戦った末に重傷を負い、若くして右下肢切断を余儀なくされたが、戦後、ドレスデンから 40 キロ離れたノッセンという町で婦人靴の工場を興し実業家となっていた。私有財産が否定され、大企業が次々と国有化されていった旧東ドイツにあって個人事業を立ち上げることが彼の夢でありそれを見事に実現したわけだが、ハンスは 一方でビジネスとは関係ないもうひとつの夢を抱いていた。1950 年代初頭、西ドイツで出版された自動車雑誌に掲載されていたポルシェ 356 の初代モデルを目にした瞬間、「これが自分にとってのスポーツカーだ」と直感したという。
以来、彼は 356 に乗りたいという夢を追い求めることになるが、実現までの道のりは決して容易ではなかった。1961 年にドイツを東西に分ける壁が建設され、最終的に国境が分断されるまでは両国の行き来は可能だったものの、東側のドイツ民主共和国は資本主義国家である西側との貿易を厳しく規制していたのである。それでも我慢できないミエルシュはまず、東ドイツで調達できるハノマーク車のボディ に 4 シーター小型軍用車輌 “キューベルワーゲン”(かつてフェルディナンド・ポルシェがタイプ 82 として設計した後輪駆動のオープントップ型軍用車)のシャシーを重ね合わせた社用車を造らせた。「自作の愛車は全く問題なく走りましたよ」とミエルシュは後に述懐しているが、彼は輸送用のトレーラーも自作し、隣国のハンガリーやポーランド、そして後に幸運の女神が現れる旧チェコスロバキアへと婦人靴を 届けていた。
旧東ドイツにおいて本来の役目を終えたタイプ 82 小型軍用車を見つけることはそう難しくはなかったとミエルシュは語っている。1945 年の大戦終結時、ドイツ兵が身を守るために西へ泳いでいく際、エルベ川東岸に車輌を数多く置き去りにしていったのである(ドレスデン地方の農家のガレージには今も当時の軍用車が収まっていることがある)。
そしてこの置き去りにされたキューベルワーゲンが夢物語の序章となる。ミエルシュは、ドレスデン工科大学の学生で当時 21 歳だった双子のエンジニア、ファルクとクヌート・ライマンが、ポルシェ 356 によく似た クーペを設計していたことを知り、二人が手掛けるデザインを再現できるもうひとりのパートナーにコンタクトを取る。その男の名はアルノ・リンドナー。ドレスデン近郊モホルンに住むボディ製造技師だ。彼はアッシュ材でボディフレームを形作り、その上にボディを重ね合わせ、シャシーにボルト留めまたは溶接する工法を得意としていた。馬車の製造を家業とする彼の家族に代々受け継がれてきた熟練の技だ。
ポルシェのパーツは 大きなブリーフケースに 入れて東側へ密かに持ち 込みました
“東独ポルシェ” を作るという夢に向かって再びキュー ベルワーゲンのシャシーを活用することにしたミエルシュだったが、旧東ドイツではボディ製造に適した板金が見つからないという問題があった。そこでミエルシュは本業を通じてチェコスロバキアで育んだ交友関係を利用し、約 30 平方メートルのシートメタルを調達。当時、金よりも価値が高いと見なされていた厚さ 1 ミリの板金は頑丈であるものの滅法重く、ボンネットだけでも 20kg の重さがあった。さらに、 キューベルワーゲンのシャシーはポルシェ 356 のものよりも 30cm も長く、幅も広かったため、“ミエルシュ・ポルシェ” の室内は 4 シーターで広々としていたもののそれ相応の重量となった。
シャシーや駆動系のパーツを探す段階になると、冒険の度合いが一段と強まっていく。ポルシェ 356A のブレーキ構成部品は、ポルシェの創設者であるフェリー・ポルシェ自らの紹介で、西ベルリンのディーラー、エドゥアルド・ヴィンター社から入手した。「貴重な部品は大きなブリーフケースに入れて西から東へ持ち込んだのですが、緊張を伴う危険な行為でした。中でもブレーキドラムの持ち込みには苦労しましたね」と後にミエルシュが語っているように、旧東独への密輸は禁固刑に値する大罪だった。彼は多い時に一日数回、警備隊の厳しい監視の下で越境したというから大した度胸だ。
かくしてプロジェクトの開始から 7 か月後の 1954 年 11 月、自作の “ミエルシュ・ポルシェ” がついに完成する。ちなみに、リンドナーがボディ製造の対価として請求した金額は 3150 西ドイツマルクであった。
当初、わずか 30PS の水平対向エンジンが搭載されていた “ミエルシュ 356” は、車重 1600kg のボディを力強く前進させるのに十分とは言えなかった。なにせ手本としたポルシェ 356 の車輌重量はおよそ半分、エンジンは倍以上の出力を誇っていたのだ。ミエルシュ が 75PS を発生するポルシェ純正の 1.6 リッターエンジンに換装するのは 1968 年になってからのこと。積年の夢が叶い、西ドイツの親戚から譲り受けた単体のポルシェ・エンジンをスペアユニットとして正式に輸入することが許可されたのである。
完成したミエルシュ・ポルシェの オーナーに、フェリー・ポルシェは安全運転 祈願を伝える手紙を用意した
ボディを手掛けたリンドナーは 1950 年代半ばに自作ポルシェ第一号をベースにしたクーペボディを 12 台ほど製造したと伝えられているが、正確な数は不明だ。確かなのは、設計者であるライマン兄弟も自身のためにいくつかボディを確保していたということ。二人はこの時もツッフェンハウゼンから支援を受けていたようだ。1956 年 7 月 26 日付けの返信の手紙の中で、ライマン兄弟宛にフェリー・ポルシェはこう記している。『お二人の問題を解決するために、ベルリンのエドゥアルド・ヴィンター社を経由して中古のピストンとシリンダーのセットをお送りします。部品が無事に届き、レプリカ・ポルシェで安全なドライブをお楽しみいただけるよう心からお祈り申し上げます』。手紙の最後にはフェリー・ポルシェの秘書のサインが記されており、本人がちょうどその頃、ル・マン 24 時間レースに遠征に出かけていたことが推察される。
一方、ライマン兄弟は完成したレプリカ・ポルシェでヨーロッパ旅行を計画する。彼らは旅行費を節約するため、双子であることをうまく利用して数年間、ひとつの運転免許を共有し、その不正が警察に見つかることもなかった。当時の写真にはグロースグロックナーの山岳道路やレマン湖、そしてパリやローマで色々なガールフレンドを連れた二人の様子を垣間見ることができる。しかし、西洋的なライフスタイルを謳歌していた二人の行動は、すでに旧東ドイツ秘密警察による監視下にあった。果たして、1961 年に東西ベルリンを分断する壁が建設されて間もなく、ライマン兄弟は脱走を手伝ったという容疑で逮捕される。彼らが服役を終え、出所したのはそれから 1 年半近く経ってのことだった。
この一件を最後に “東独ポルシェ” は歴史の表舞台から姿を消すことになるのだが、2011 年にオーストリアのコレクター、アレクサンダー・ディエゴ・フ リッツがその存在を確認し、“保護” に成功する。フェリー・ポルシェにオーソライズされたレプリカ・ポル シェの中で現在完全な状態で保存されているのは、知られている限りでわずか 2 台。アレクサンダー・フリッツが完全に修復させた一台と、かつてハンス・ミエルシュが所有していたオリジナルのレプリカ・モデルである。ミエルシュの靴工場は 1970 年代初頭に国営企業となり、事実上没収されている。しかし彼は当時、愛車まで国に奪われないよう、大戦で負っ た自らの戦傷を巧みに利用し、「車輌は障害者である自分専用に特注したものである」という口実を作り、見事維持に成功した。ミエルシュが当局に申告した愛車の車輌価値は 1800 東ドイツマルク。自ら設立した靴工場を失った彼は、以来、アスファルト ルーフィング工場の一労働者として生計を立てなければならなかった。
ドイツ民主共和国の歴史に終止符が打たれた 30 年前、定年を迎えていたハンス・ミエルシュは、統一後のドイツ連邦共和国においても愛車を大切にし、丁寧に手入れを続けた。そして 90PS を誇るポルシェ 356 の純正エンジンに換装したのが最後の改良となった。
ミエルシュが人生の伴侶であった愛車との別れを決意したのは 1994 年、73 歳になった時のことである。彼はヴュルツブルクのポルシェ愛好家であるミヒャエル・デュニンガーという信頼できる買い手にバトンを渡す。そして今もそのデュニンガーが “ミエルシュ・ポルシェ” のオーナーだ。このクルマが姿を現す場所はどこであれ、人だかりができる。うちに秘める “何か” が人の興味を惹きつけるのだ。「多くの人は 356 に似ていることまでは分かるのですが、具体的な違いまでは認識できていないようです」とデュニンガーは楽しそうに笑う。彼は “ミエルシュ・ポルシェ” を引き継いでから、シートをコニャック色の革張りにしたり、戦前のレブカウンターをホルヒ製のポルシェ純正パーツに交換したり、様々な改良を加えている。世界が東西に分断されていた冷戦時代、人々がまだ夢の自動車を自らの手で作ることのできた佳き頃に誕生したミエルシュ・ポルシェ。その出自がどうであれ、現代自動車史の一部であることに変わりはない。
サイドキック
9:11 Magazine: 動画で見るミエルシュ・ポルシェ
911-magazine.porsche.com からご覧いただける動画は、双子のファルクとクヌートのライマン兄弟がどのようにしてレプリカ・ポルシェを製作したのかを感情豊かに伝えている。ふたりがヨーロッパ各国を巡った車輌は発見当時、数十年間の放置を経て激しく損傷していた。
これをオーストリア人のアレクサンダー・ディエゴ・フリッツがレストア。2016 年に『Lindner Coupé: GDR Porsche from Dresden』という題名の本が出版されている