最高の親友 :

追憶

今からちょうど 60 年前、ポルシェ 550 スパイダーの生産開始と時を同じくして、リュー・ブラッカーは自身最後のレースに挑んだ。後に伝説となる 550 スパイダーは、ブラッカーとジェームズ・ディーンを友情で結ぶ大切な一台であった。

リュー・ブラッカーが、シルバーに塗装されたポルシェ 550 スパイダーのドアを丁寧に開く。そしてシートに腰掛け、ステアリングホイールにそっと手を添える。彼はカリフォルニアのモータースポーツ・クラブ『サーマル・クラブ』が拠点を置くサーキットのバックに浮かび上がるメッカ・ヒルズの夕景に視線を移すと、静かにひと言だけ発した。「まるで故郷に帰ってきたようです」。

ブラッカーがアマチュアのレーシング・ドライバーとして自身最後のレースに参加したのは、今から 60 年前。当時の記憶は、まるで昨日の出来事のように鮮明に残っているという。ブラッカーは親友のジミーことジェームズ・ディーンと、しばしば 550 スパイダーでドライブに出かけた。御年 89 歳とはいえ、アクセルをひと踏みすれば記憶はたちまち 1950 年代に戻る。

ポルシェ 356 を土台に生産されたポルシェ 550 スパイダーの車輌重量(燃料を含めない)はわずか 550kg だ
ピットレースでの歓談:

ピットレースでの歓談:

同僚と話を交わすリュー・ブラッカーとスピードスターのステアリングを握るトレーニング前のデール・ジョンソン。ジミーが参戦した三度のレースでは、ジョンソンは手ごわいライバルだった

ブラッカーと、当時まだ無名であったディーンは、1954 年 6 月にワーナーブラザーズ敷地内のレストラン『グリーン・ルーム』で初めて出会い、すぐに意気投合した。もし彼が生きていたら、今もきっと最高に気の合う友達であっただろうとブラッカーは呟く。クルマの他に音楽や映画といった趣味でも通底していたふたりは、徐々に親交を深めながらいくつかの計画を温めていた。ハリウッドの人間を信用していなかったディーンが自ら手掛ける映画をブラッカーがプロデュースするプランを筆頭に、レストランやポルシェ・ディーラーの協同設立も構想していたという。「ディーラーの名前は『ジェームズ・ジーン・モーターズ』と決めていました」とブラッカーは遠い目をして微笑む。

地元アメリカ製のクルマがお気に入りだったブラッカーは当初、オープントップのオールズモビルやビュイック・センチュリーを所有していたが、ディーンの影響を受けて急速にポルシェの虜になっていく。二人で夜のカリフォルニアを出発して、マルホランド・ドライブのワインディングを駆け抜け、グランドキャニオンを目指した青春のロング・ドライブ。その相棒はスピードスターだった。

ブラッカーのレースに対する情熱を目覚めさせたのもまたディーンであった。1955 年初め、ブラッカーはサンタバーバラ・ロードレースにディーンのヘルメットを被って初出場した。マシーンはジミーが所有していた赤の 356 スピードスター。「ジミーが貸してくれた……と思っていました。レース直前、彼がボディの左側にサインをしてくれたので、プレゼントだと気づいたのです」とブラッカーは嬉しそうに振り返る。

ブラッカーと同様、ディーンも当時レースを始めたばかりだったが、契約先のワーナーブラザーズがレース禁止令を出していたため、結局 3 レースしか出ることができなかった。一方、ブラッカーは 1957 年シーズンまで様々なポルシェを駆り 40 回を超えるレースに参戦した。スタートナンバーは常に♯113。「ジミーと私は 13 番にしたかったのですが、信心深いオートモービルクラブはこの番号を嫌がったのです。しかたなくジミーが# 130、私が# 113 を付けることになったのです」とブラッカーは述懐する。彼はめきめきと腕を上げ、最終的には優勝 6 回、2 位と 3 位がそれぞれ 5 回ずつと立派な戦歴を刻んだ。当時、ブラッカーは西海岸で最も優勝回数の多いレーシング・ドライバーだったのだ。

ブラッカーはポルシェ公認のワークス・ドライバーではなかったものの、当時まだ駆け出しだったドイツのスポーツカー・メーカーをカリフォルニアで有名にすべく、地元のポルシェ・ディーラーからサポートを受けていた。「356 カレラがアメリカで発売された頃はあまりインパクトがなく、レースに勝って名を上げる必要がありました。スポーツカーにとって最高の宣伝はレースですから」とブラッカーは説明する。彼は当時、カタログに載っていなかった黒の 356 カレラ・スピードスターをポルシェに用意させたのだから、たいしたものである。「ポルシェは全く乗り気ではありませんでした。でも黒のカレラ・スピードスターなら格別の存在感を放てるはずだと確信していましたから、何度もお願いして用意してもらったのです」。ちなみに現在、砂漠の街パームスプリングスにある彼の自宅には黒いレーシングスーツとヘルメットを身に着け、サーキットで黒い 356 カレラを操る若き日のブラッカーの写真が飾られている。「イメージカラーの黒は、私のレースキャリアと同じくジミーがきっかけでした。彼は決まって黒いレーシングスーツを着ていましたが、それがまた本当に格好良かったのです」。

追憶:

追憶:

ジェームズ・ディーンが載った昔の新聞記事を手に取るリュー・ブラッカー

ブラッカーが模範としたドライバーはアルゼンチンの F1 パイロット、ファン・マヌエル・ファンジオだった。「コーナーでガードレールに触れることもなければグリップを失うこともないファンジオの完璧なトレースラインに憧れていました。私は常にファンジオのスタイルを意識して高速で滑らかなコーナリングを心がけていましたね」と、ブラッカーは自身のドライビング・スタイルを解説する。

ディーンはどうだったのだろう。「ジミーは私のスタイルとは全く逆で、スターリング・モス的と言うか、常にフルスロットルでした。マシーンに対する負荷も相当なレベルだったと思います」。ドライビング・スタイルを確立するためにディーンに与えられた時間はあまりにも短かった。

あれは……そう、1955 年 9 月 18 日のこと。若かりしブラッカーが初めて運命のポルシェ 550 スパイダーを目にしたのは、帰宅途中にたまたま通りがかったハリウッドの “コンペティション・モーターズ” だった。その日の夕方、ブラッカーは早速ジミーに軽量設計のシルバーアローの存在を伝えるのだが、3 日後、ディーンは愛車 356 スーパー・スピードスターと入れ替える形で 550 を入手し、その足でブラッカーの自宅を訪れる早業を見せる。現在、南カリフォルニアのオート・ディーラー “ヨーロピアン・コレクテブルス” が所有し、時価数億円とも言われている銀色の 550 スパイダーである。「結局私はジミーが乗っていたスピードスターを自分の赤い 356 スピードスターと交換してもらいました」と、ブラッカーは真相を当時の経緯を語る。

そして 9 日後の 1955 年 9 月 30 日。当時、ブラッカーとレースやクルマについて熱く語り合ったジェームズ・ディーンは、20 代半ばでこの世を去る。ロサンゼルスから 600km ほど離れたサリナスで開催されるレースへ向かう途中、手に入れたばかりの 550 スパイダーで衝突事故に遭ってしまったのだ。映画『エデンの東』に主演して一躍スター街道に躍り出たばかりだった彼は一転、悲劇のヒーローとなり、皮肉なことに 550 スパイダーはディーンの事故死を通じて有名となった。

古き良き友人:

古き良き友人:

カリフォルニアのサーマル・クラブに拠点を置くサーキットでリュー・ブラッカーはポルシェ 550 スパイダーとの思い出に浸る

残されたリュー・ブラッカーは 1957 年、356C カレラを操り最後のレースを走り抜いて自身のキャリアを締めくくった。「妻の妊娠が分かった翌日に現役を退く決断をしました。父親になったら、それまでのような危険な走りはできないわけですから」。

それから数十年、ブラッカーはレースの世界を離れ、保険や株式のブローカーや投資金融業の道を歩んだが、2013 年に沈黙を破ってディーンとの思い出を記した『Jimmy & Me』を発表する。そこには彼が 58 年間明かすことのなかった数々のエピソードが綴られている。「私はそれまでジミーとの思い出をずっと封印してきました」とブラッカーは語る。彼はあの日、二人の行きつけだったハリウッドのレストラン『Villa Capri』でディーンの死を伝えられたという。

ブラッカーは埃のかぶった書類ケースを開き、親友ディーンの思い出の品を見せてくれる。その中にはディーンの生前のインタビューが掲載されたロサンゼルス・タイムズの黄ばんだ切り抜きもあった。第二のマーロン・ブランドと呼ばれることを嫌った彼らしいインタビュー記事だ。フェアモント・ニュースには、ディーンの死とインディアナ州フェアモントで行われた葬儀の様子を伝える記事が掲載されている。フェアモントはジェームズ・ディーンが敬愛する母親の死後に叔母とその夫の手によって育てられた想い出の土地だ。1955 年 10 月 8 日のディーンの葬儀には、ブラッカーも参列している。そして翌 1956 年春には新しい 1600 スピードスターでロサンゼルスから 3500 キロ離れたインディアナへ向かい、ディーンの育ての親を訪ねている。ディーンの従兄弟にあたるマーカス・ウィンスロー Jr. はこう振り返る。「リューがスピードスターで町にやってきてドライブに連れて行ってくれた時、私は 12 歳でした。あの時がポルシェとの初めての出会いです」。現在、両親の農家で暮らすウィンスローJr.は、今なおブラッカーと連絡を取り合っているという。「リューは私たちと同様、ジミーのことを決して忘れないでしょう」。

「リューは私たち同様、ジミーのことを決して忘れないでしょう」 マーカス・ウィンスローJr.

企画: Sven Rueddigkeit

Helene Laube
Helene Laube